これは何時の話かと言うと、小学校低学年の頃の話です。
何の話かというと、殺害した話です。
経緯はとても簡単である。
私は兄にいじめられました。兄にいじめられること自体は日常茶飯事だったが、その日は幾分、度合いが酷かったのだろう。その時の私はぶつけようのない怒りと自分の無力さに震えたのだと思う。
その怒りの解消先に選んだのが、視界に飛び込んだひとつの命を奪うことだった。やぁやぁこれはこれは。ぶつける怒りがあったじゃないか。
そのひとつの命とはヒマワリです。
家では3本のヒマワリを育てていました。成長していて、高く、大きく育ったヒマワリ。
その内の1本のヒマワリをド真ん中からバキッと折った。完全にその命を絶ちました。
自分の身勝手な理由で。兄にいじめられたから、その腹いせに全く関係のないヒマワリの命を潰した。兄に向かっていったって勝てないのは分かっているから、八つ当たりです。八つ当たりで無関係の命を奪いました。
虫を殺すのとわけが違う感覚が襲った。ヒマワリを折ったあと、とても悲しくなったのを憶えている。
このヒマワリを折ってしまったときの嫌な感覚は今でも残っていて、ずっと自分の記憶に焼き付いている。これから先も絶対に消えることはない。私の人生、大きなイベントが殆ど無かっただけに、この出来事は猛烈に脳裏に焼き付いている。人生をプレイステーションのメモリーカードに例えるなら、この出来事だけで3ブロックくらいは占拠しているはずだ。
例えば、虫を殺すときっていうのは、何かしらこちらに不快感があるからであって、その不快感を解消するために殺す。言うなればこっちにも殺す道理がある。虫からしたらとんでもない理由だが、こちらにしたら一応殺すなりの理由がある。だから、虫を殺したところで罪悪感は芽生えない。私が生きるために邪魔なもの、不快になるものを排除しただけなのだから。皆さんもそうでしょう。
しかし、ヒマワリはというと私に対して何も不快感を及ぼさない存在である。なのに殺した。自分で育てていたのに、殺した。
だからとんでもなく嫌な感覚、申し訳ない気持ちが今でも不意に襲ってくるのだと思う。もし人を殺めたとしたら、こういう感覚が訪れるのかもしれない。
本当に可哀相なことをしたと今でも思っているが、こう思うこと自体が自分自身を気持ち悪くさせる部分でもある。可哀相だと思ったところで生き返るわけはない。かといって贖罪として自分が死ぬなんてこともしたくはない。結局、ナルシズムに浸りたいだけの人間じゃないかと。ヒマワリの命を奪って悲しんでいる、申し訳ないと思っている自分が可愛いだけなのではないかと。自分の都合で殺したくせに。
自分が生きる過程でどれだけの命を奪ってきたか分からない。もっと幼いころ、物心がついていないときは遊びで虫を殺したこともあるだろう。ダンゴ虫をカメラのフィルムケースに入れたりしていたが、あれも無意味な殺戮だ。中に入れている内に勝手に死んでいたと思う。そして、今に至るまで、どれだけ沢山の命を奪って生きてきたか。
だから、ヒマワリの命を奪ったことについて申し訳ないと思ったりすること自体が自分の汚い部分であると思っている。ヒマワリだけでなく沢山の命を奪って生きているのに、都合よくヒマワリの命にだけスポットを当てて申し訳ないと感じている自分が、汚くて醜いのである。それならもっと堂々と醜くしていなければいけない。なんでヒマワリの死だけ悲しむのか。
それは自分の手で直に命を奪ったこと、且つ自分に害を及ぼさない存在、殺す必要が一切無かったことに起因すると思うのだが、だとしても、そこでヒマワリの命だけ尊いものかのように、今でも申し訳ないことをしたと思うことがズルいと思っている。自分ではどうしようも出来ないが、脳内でこう思っていること自体が自分の汚さだ。
まさに善人ぶっているクソ人間である。
子供の頃に殺めたヒマワリだけ、なんで今でも申し訳なく思って生きているのか。そう思うのなら今まで生きてきた過程で奪ってきた全ての命に対して謝罪をする必要があるのに。もしくはその逆である。ヒマワリを殺めたことを申し訳ないと一切思わず、のうのうとクソはクソらしく沢山の命を奪って何も気にせずに生きているほうが良いだろう。半端な善人ぶっている自分の感情が気持ち悪い。毎日食べる肉や魚には申し訳ないなど微塵も思わないのに。
ヒマワリのことを今でも不意に思い出しては後悔し、申し訳ない、酷いことをした、可哀相な気持ちで一杯になるが、どうやったって戻れない。自分の一時の感情であんなことをしたのは、本当に愚かだったと思っています。自分が命を奪ったヒマワリだけに対しては、本当に申し訳ない。これが善人ぶっている気持ち悪い感情だとしても、そう思わずにはいられない。
ヒマワリの命を奪って以来、ずっと焼き付いて、不意にそのときの出来事がフラッシュバックされる。
しかし、そもそもの話は、兄が存在しなければ良かっただけの話だ。この世界に悪影響を及ぼしているのは兄という存在だ。
そして、もっと言えば人間自体が生まれないことが一番の幸せでしょう。結局この“反出生”という考えに行き着く。前にも語ったことがあるが。
生まれなければ他の生物の命も奪わないし、死の恐怖と向かい合うこともない。ずっと“無”であることが一番良いはずです。
生まれてしまったら死の恐怖、最後に待ち受けるバッドエンディングと確実に向かい合わなければならない。本当にその恐怖を超える幸せが人生にはあるのだろうか。自分は、無い。死ぬことが恐ろしくて仕方がない。一体最期はどう死ぬのか。事故か病気か災害か。
生命が繋がれて今の世界が成り立っているっていうのは単純に生命の凄さを感じるが、それと“幸せ”は別だ。少なくとも自分は生まれてこないほうが良かったから、そっちはそっちで人類育成コースを頑張ってくれと言いたかった。生まれる前に拒否権があればの話だったが。自分は“無”で居たかった。
なんで精子リレーのときだけ頑張ったのだろう。初期ステータスも成長限界もド底辺だ。キャラクリの時点で失敗している。